12人の怒れる男

2007年6月14日
シブい!シブすぎます、この作品。モノクロ映画なんだけど、途中からかなり引込まれて時間が短く感じた。この、陪審員たちのやりとりだけで構成されるというシブさものさることながら、陪審員の在り方みたいなものに真正面から取り組んだその姿勢もシブいと思うのだ。日本でももうすぐ裁判員制度が始まりますね。「全員一致」じゃなければならないアメリカの刑事訴訟の陪審制度とは異なり、日本の場合は過半数で決まるし、しかも「一般市民」だけで評決するのではなく、裁判員も含めた合議体で評決するので、そもそもこの映画のような状況は起こりえないのだけどね。

不良で札付きのワルみたいな少年が父親殺しの殺人容疑をかけられ、この当時はまだ死刑制度が多くの州で廃止になる前なのか、第一級殺人の容疑につき陪審が有罪の評決をすれば自動的に電気椅子で死刑になるという状況。誰もがその少年の有罪を疑わない状況の中で、一人の男が疑問を呈するところからこの物語は始まるのだ。そして映画で描かれるのが、裁判の中でのいろいろな問題点。証人だって人間だし、様々な理由から「自分の言っていることは正しい」と信じて疑わずに間違った証言をしているかもしれないという状況、それらの「不明確さ」を指摘する役割を担っているはずの弁護人は、貧しい者は国選弁護人しか雇えないために実はまともな弁護をしてくれないという状況、陪審員が抱える偏見などなど。私も一度アメリカで刑事事件の傍聴に言ったことがあるが、弁護人は準備不足、自信のなさそうなしどろもどろの論述、メモを読みながらの説得力に欠けるその弁護を聞いたとき、「この被告は有罪は免れないな」と感じてしまった。この映画と同じように父親殺しの事件で、豊かではないという被告だったから、同じように国選弁護人だっただろう。まともな弁護にはなっていなかった。こんな問題だらけの状況で裁かれて死罪になってしまうとしたら、実はえん罪だったなんていうケースがどれくらいあったことか・・・

このシブい作品が語りたかったのは、そういう陪審制度の危うさだったんじゃないだろうか。だとすると、こういうシブいテーマを取り上げたってことが映画として素晴らしいし、作品構成も、狭くて暑い部屋に集まった12人のやり取り以外にはほとんど何もないのだ。それでもこれだけ重くて意義のある作品が作れるってことが素晴らしい。

この作品の中でのヘンリー・フォンダのように、正義感あふれる素晴らしい裁判員にならなくてもいい。そういうことじゃないのだ。ただ、冷静に、なるべく偏見などは自分の意志で排除して、証拠調べの中で論述される事実のうち、信頼できるものとできないものとを選り分けて自分の判断を下すこと。一般人である我々には難しいことかもしれないけど、人一人の人生を決めることの重さを十分感じることが、少なくとも必要なんじゃないだろうか。

映画にもなるくらいだから、ともすると裁判は「勝ち負け」のゲームのようにもなりがち。映画の中だけではなく、実際の裁判の中でも、「勝つ」ためだけに、例えばレイプの被害者にひどい質問をして困らせ、言葉につまらせ、侮辱するような弁護をする弁護士もいると、検事をしている友人から聞いたことがある。法よりもより高いレベルに「倫理」っていうのがあると思うんだけど、法曹の中には、その「倫理」レベルには到底達してない人もいるんじゃないかな。残念ながらね。そんな法曹よりは、資格なんかなくても、きちんと「倫理」感のある普通の人に裁かれる方がいいかもと、思ったりもする。

裁判員制度の導入の経緯には全くもって賛同できない私ですが、裁判員制度そのものを否定しているわけじゃないのでした。

ついつい力が入ってしまったけど、本当に力のある、映画の中の映画だ。

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